• 電気通信大学、プログラミング教室、東京都調布市

▼8回と9回でゴールドスタイン夫妻を取り上げたので、2回目のキー・アントネッリさんの夫であるモークリーさんにここでぜひとも触れておきたい。
▼モークリーさんはENIACの概念を描き出した人物。エッカートさんと出会ったことで、水素と酸素が出会ったみたいな化学反応が起きる。いやちょっと違うか。なぜなら、ENIACが生まれるには、触媒が必要だったから。その触媒とは軍と大学のリエゾン(連絡役)だったハーマン・ゴールドスタインさんだ。なぜ触媒かというと、軍の資金を調達してENIACを構想から実現に向かわせる強力な促進効果があったから。
▼ゴールドスタインさんは著名な数学者ノイマンさんをENIAC開発チームに引き入れる。会議に参加してポイントを掴んだノイマンさんはプログラム内蔵方式を解説するレポートを作り、ゴールドスタインさんに渡す。ゴールドスタインさんはそのレポートを清書し、モークリーさんとエッカートさんの名前を削除してノイマンさんの単著として関係者に配布する。
▼これがプログラム内蔵方式がノイマン方式とも言われるようになる原因である。実害としては、モークリーさんらが出したプログラム内蔵方式の特許が、ノイマンさんのレポートによって公知の事実になっている、という理由で取り消されたことだ。
▼モークリーさんはプログラミングを重要視していたので、ENIACの女性プログラマの半分がエッカートさんと起こした企業EMCCに参加、さらにエイケンさんのところでプログラマをやっていたG・ホッパーさんも参加する。EMCCはUNIVACを作り、現代のユニシスにつながっているからDNAは現代まで生き延びている。

ジョン・ウィリアム・モークリー John William Mauchly 1907-1980 コンピュータ科学者
1907年、オハイオ州シンシナティ生まれ。
父親がカーネギー研究所地球電気部門の部門長の職を得たのでメリーランド州チェビー・チェイスに一家で転居。
教育
チェビー・チェイスのE.V. Brown 小学校に入学。
子供の頃から電気に興味があり、10代になると近所の家の電気修理を行う。
ワシントンDCのマッキンレー技術高校に入学。高校の新聞Tech Lifeの編集長になる。
1925年(18才)奨学金を得てエンジニアリングを学びにジョンズ・ホプキンス大学に入学。
1930年(23才)メアリー・オーガスタ・ワルズルさんと結婚。
1932年(25才)ジョンズ・ホプキンズ大学で Ph.D. in physics。
活動
1932年(25才)ジョンズ・ホプキンズ大学の研究助手。
1933年(26才) Ursinus Collegeで物理部門(一人)の長になる。
1939年(32才)WWII
1941年(34才)ペンシルバニア大学ムーア・スクールで開かれた電子工学の防衛訓練コースを受講。ジョン・エッカートさん(5月10日)と出会う。受講後、講師になる。
1942年(35才)ENIAC(5月13日)の出発点になる素案を作成。大学内で回覧するも変化なし。しかし陸軍省とムーア・スクールのリエゾンであるハーマン・ゴールドスタイン中尉(11月3日)がこの素案を見て、弾道計算のスピードアップに使えると判断。陸軍向けの提案書にするよう提言。
ムーア・スクールでBRL(8月3日)の弾道計算をする女性計算手80人に必要な数学を教えるため妻のメアリー・モークリーさんがハーマン・ゴールドスタインさんの妻アデル・ゴールドスタインさん(11月2日)らと共に講師役を務める。
1943年(36才)陸軍とペンシルベニア大学がENIAC建造契約を締結。ペンシルバニア大学ムーア・スクールの助教授(電子工学)。役割分担はモークリーさんが概念設計、エッカートさんがハードウェアエンジニアリング、アーサー・バークスさんが首席技術者、そしてゴールドスタインさんが管理責任者。
1945年(38才)EDVACの計画を立て、陸軍とペンシルバニア大学が建造契約を締結(1月)。ゴールドスタインさんがフォン・ノイマンさんをコンサルタントして引き入れる。ノイマンさんが書いたメモをゴールドスタインさんが整理しノイマンさんの単著「EDVACに関する報告書の第一草稿」として関係者24人に配布(6月)。WWII終戦(9月)。
1946年(39才)ENIAC(2月14日)公開。ペンシルバニア大学がENIAC開発で得られる商業的権利を確保できるよう特許ポリシーを変更。大学に残ると権利を全て大学に譲渡することになるのでエッカートさんと共に退職(3月)。Electronic Control Companyを起業しBINACを製造(4月)、B・ホルバートンさん(10月30日)もプログラマとして参加。ムーア・スクール開催の「デジタル計算機設計のための理論と技術」で講義を担当(7月8日~8月31日)。これにケンブリッジ大学のウィルクスさん(5月21日)が参加。妻のメアリーさんが水難事故で死去(9月)。
1947年(40才)エッカート・モークリー・コンピュータ・コーポレーション Eckert–Mauchly Computer Corporation:EMCC設立(12月)。コンピュータの販売にはプログラムが必要と判断し、開発能力を持つ数学者を集める。J・バーティクさん(10月29日)参加。
1948年(41才)ENIACプログラマのキャスリーン・リタ・マクナルティ(キー・アントネッリ)さんと結婚。キーさんはEMCCのソフト開発メンバーになる。
1949年(42才)世界初のプログラミング言語Short Codeを開発。UNIVAC用のコンパイラ開発のためG・ホッパーさん(10月19日)が入社。
1950年(43才)レミントンランド(10月21日)がEMCCを買収、UNIVAC部門として継続。
1955年(48才)レミントンランドがスペリー(10月22日)と合併スペリーランドになり、スペリーUNIVACとして継続。
1959年(52才)スペリーランドを退職。Mauchly Associates, Inc.を起業。
1967年(60才)コンサルタント組織Dynatrendを設立。
1973年(66才)スペリーUNIVACのコンサルタント(1980年まで)。
1980年(73才)ペンシルベニア州アビントンで死去。

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https://en.wikipedia.org/wiki/John_Mauchly