▼ジーン・バーティクさんはENIACの女性プログラマの一人で、1946年のENIACの公開デモの成功を支えた人物。スポットライトはエッカートさんとモークリーさんに当たったので、長い間、女性プログラマの働きは世間に理解されなかった。しかし、欠かせない存在だったからこそエッカートさんとモークリーさんは起業したEMCCのメンバーに迎えた。
▼デビュー時のENIACは、同時期にエイケンさんがハーバード大学でIBMと開発したHarvard Mark Iより速かった。ジーン・パーティクさんは競争意識があったのだろう。Harvard Mark Iの開発に参加していたG・ホッパーさん(10月19日)は後でEMCCに加わることになる。
▼若い人に向けた言葉を持っている人。「自分でやれると思い、そのための努力をすれば達成できる。だから他人ができないなどと言っても相手にせず、自分のことをやりなさい」 (この引用はWikipdediaの日本語版にあって英語版にはない)
ジーン・ジェニングス・バーティク Jean Jennings Bartik 1924-2011
1924年、ミズーリ州ジェントリー郡生まれ。Betty Jean Jennings。父は教師と農業者を兼ねていた。
祖母の家に馬で通う。かわいがられて育つ。
教育
複式学級の学校。ソフトボール選手で地元の注目を集める。
1938年(14才)スタンベリー高校に入学。自分で運転して自動車通学。
1939年(15才)WWII。
1940年(16才)スタンベリー高校卒業。
1940年(16才)ノースウェスト・ミズーリ州立大学に入学。主専攻を数学、副専攻を英語にする。
1945年(21才)ノースウェスト・ミズーリ州立大学卒業。数学を主専攻にした唯一の学生。
活動
1945年(21才)IBMと陸軍(ペンシルベニア大学ムーア・スクール)の両方に応募。後者で採用決定、BRLで弾道計算。WWII終戦。
1946年(22才)ペンシルベニア大学でエンジニアのウィリアム・バーティク氏と出会い結婚。ENIACのプログラマに抜擢される。女性計算手チームは共同して働きサブルーチン、ネスティングなどプログラミング技術を開発。
ベティー・スナイダー(ベティー・ホルバートン)さんと一緒にENIACの公開デモを準備。手計算で40時間かかる作業を20秒で済ませる実演を成功させる。Harvard Mark Iより高速であることも実証。賛辞はモークリーさんとエッカートさんに向けられた。その後、ENIACをプログラム内蔵方式に改装するプロジェクトの責任者になる。ノイマンさん、アデル・ゴールドスタインさんらと協力。
1948年(24才)ENIACがプログラム内蔵方式になる。EMCC(10月20日)に参加、BINACとUNIVAC Iの開発に携わる。
1950年(26才)EMCCがレミントンランド(10月21日)に買収されUNIVAC部門になる。UNIVACの納入先の技術者にプログラミングと使用方法をトレーニング。夫がレミントンランドに就職。夫婦での勤務が認められていなかったので退職。
1951年(27才)個人の立場でモークリーさんのプログラミング作業を手伝う(54年まで)。
1954年(30才)子供が生まれたので仕事から離れ子育てに専念。
1967年(43才)ペンシルバニア大学で修士号(英語)。
1968年(44才)離婚。Auerbach Corporationでミニコンピュータに関する技術報告の作成・編集に携わる(8年間)。
1986年(62才)所属していた企業の売却に伴いコンピュータ業界を離れ、不動産業に転身(25年間)。
1996年(72才)ENIAC時代の女性計算手の役割が再評価。アントネッリさん(10月27日)と共に講演活動。
1997年(73才)オリジナルのENIACプログラマたちと共に Women in Technology International の「女性技術者の殿堂」に入る。
2002年(78才)ノースウェスト・ミズーリ州立大学で名誉博士(理学)。大学内にジーン・ジェニングス・バーティク・コンピューティング博物館が開設。
2008年(84才)コンピュータ歴史博物館フェロー(殿堂入り)。
2011年(87才)死去。
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