• 電気通信大学、プログラミング教室、東京都調布市

▼15才から時計製作者のキャリアをグラハムさん(10月10日)の見習いとしてスタート。師匠が当代一流の時計師で、本人に才能があった。8年の修業ののち、マッジさんの腕の確かさを知っている販売店が集まって専属製作者として抱えられる形で独立。評判は海を渡り、スペインのフェルディナンド6世から注文が来るほど。本国イギリスのジョージ3世も金時計を購入して、宮中時計師に任命してくれた。ちゃんと業績が評価されている。
▼問題は経度委員会。マッジさんがマリンクロノメータを作って応募しても厳しい評価しか返ってこない。クロノメーターの生みの親、ハリソンさん(10月9日)と同じ目に合わされたわけだ。ハリソンさんの時はジョージ3世が経度委員会にぶち切れたので賞金が出た。マッジさんの場合は別の力を持つ委員会の介入があったおかげで賞金が出た。
▼4人の時計製作者の関係を図にしてみた(下)。師弟関係に加え、科学者のために器具を作って提供する関係が見える。バベッジさんの階差機関を製作するための技術的土台はこのころから熟成が始まっていた。

トーマス・マッジ Thomas Mudge 1715-1794 イギリスの時計師
1715年、イングランドのデボン州エクスター生まれ。父は学校の校長、牧師。
父がデボン州バイドフォードのグラマースクールの校長なったので、一家でエクスターからバイドフォードに転居。
教育
父が校長のグラマースクールで学ぶ。
活動
1730年(15才)ロンドンに出て高名な時計製作者G・グラハムさんに弟子入り。
1738年(23才)時計製作者としての高評価を獲得。グラハムさんから独立。ロンドンにある複数の有名小売店と専属製造契約を結ぶ。ロンドンの高名な時計製作者J・エリコットさん(1706–1772)のために複雑な時計を製作する。名をあげスペインのフェルディナンド6世御用達の時計製作を受託、5種類の時計を納品。
1748年(33才)自分の時計工房を立ち上げる。
1751年(36才)師匠のグラハムさんが死去。自社の宣伝に力を入れ始める。英国随一の時計製作者の評価を獲得。
1753年(38才)結婚。
1755年(40才)レバー脱進機を発明。この機構は現代に至るまで腕時計や懐中時計で採用されている。
1765年(50才)「Thoughts on the Means of Improving Watches, Particularly those for Use at Sea」を出版。タイトルから船舶用時計への関心が伝わる。実際、マリンクロノメータ製作へ進む。
1770年(55才)ジョージ3世がレバー脱進機を組み込んだ大型金時計を購入し、王妃に贈った。現在もウィンザー城に保存されている。健康が衰えたのでロンドンからプリマスに拠点を移し、マリンクロノメータの開発に着手。
1774年(59才)経度委員会の厳しい要件を満たす時計(J・ハリソンさんの初期の作品を上回る性能を持つ)を提出。500ギニーの賞金を得る。
1776年(61才)ジョージ3世から宮中時計師に任命。
1779年(64才)さらに厳しくなった要件をクリアする時計を2点提出。評価担当の5代目グリニッジ天文台長ネヴィル・マスケリン氏によって不満足と評価される。この評価は後に論争を起こす。1773年、J・ハリソンさんの時計も正当な評価を受けられなかった経緯がある。
1792年(77才)経度委員会に対し貴族院上訴委員会委員J・バンクス氏の調整が入った結果、ムッジさんは賞金を受け取った。
1794年(79才)死去。

https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Mudge_(horologist)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%B8