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▼コンピュータ技術に強い国は?というとイスラエルが出てくる。しかし、1940年から50年代は、コンピュータがどれだけ社会で必要とされるものか、ほとんど理解が進んでなかった。そんな時期からイスラエルは大金をかけて海のものとも山のものとも分からないコンピュータ作りに着手した。その担い手がペケリスさんである。
▼ペケリスさんはIASプリンストン高等研究所でノイマンさんの下でIASコンピュータの開発メンバーだった。実際にコンピュータが生まれていくプロセスを目で見て体験していた。そんなペケリスさんに、イスラエルの建国の父・ヴァイツマンさんがイスラエルの研究所に応用数学部門を作るから君に任せる、ついては何が必要か、と尋ねる。
▼その答えがIASコンピュータのイスラエル版の開発だった。ノイマンさんの後押しもあって、話が進み、予算がつき、実機が完成、稼働しイスラエル中の研究者が使用を申込む盛況ぶりを見せた。そこからイスラエルの科学と技術を支えるコンピュータ重視の文化が定着し、今日の隆盛に至る。
▼イスラエルで、まだ誰も見たことがないコンピュータを作るとき、実際に完成すると信じていたのはノイマンさんの下にいたペケリスさんだけ。他の技術者は誰も完成すると思っていたかった、という。実際に見た経験、ビジョンの具体性がどれほど大事かが伝わるエピソードだ。

チャイム・ペケリス Chaim L. Pekeris 1908–1993
物理学者。数学者。イスラエル初のコンピュータWEIZACのプロデューサ。

1908年、リトアニア生まれ。
1914年(6才)WWI。
1918年(10才)WWI終戦。
教育
1925年(17才)叔父の助けで兄弟2人と共にアメリカに移住。MITに入学。
1929年(21才)MITで B.Sc.(気象学)。
1933年(25才)MITで 博士(気象学)。
活動
1934年(26才)MITの地質学部の講師(気象学)。
1938年(30才)アメリカ市民の資格を得る。
1941年(33才)コロンビア大学のハドソン研究所に軍の研究のため移籍。
1939年(31才)WWII
1945年(37才)WWII終戦
1946年(38才)IASに入る。フォン・ノイマン先生によるIAS machineの設計、制作に立ち会う。イスラエル建国の父であり化学者のヴァイツマンさんからイスラエルの研究所に応用数学部を作りたいと相談を受ける。ペケリスさんはIAS machineと同じものを作り、イスラエルの科学振興と国防に役立てようと持ちかける。
1947年(39才)応用数学部の諮問委員会にコンピュータ開発議案をかける。アインシュタイン委員は反対。ノイマン委員は賛成。他の委員から「こんな小さい国にコンピュータなど必要か?」と聞かれたときノイマンさんは「ご心配なく。使い手がないときはペケリスさんが使い続けます」と回答。諮問委員会はGoサインを出す。ヴァイツマンさんは研究所予算全体のうち20%をコンピュータに充てる。
1948年(40才)一家でイスラエルに移住。
1949年(41才)ヴァイツマン科学研究所の応用数学部長になる。
1952年(44才)IAS machineプロジェクトのメンバーからノイマンさんが選んだ Gerald Estrin氏とThelma Estrin氏(夫妻)がWEIZACプロジェクトの促進のために応援に来る。ジェラルド氏の感想「イスラエルに着いて分かったのは、ペケリスさん以外の技術者は誰がWEIZACが完成すると思ってなかった」 有能なスタッフの募集から開始。WEIZACプロジェクトは、若い数学者や技術者がスキルアップする機会になった。
1954年(46才)WEIZACの開発が始まる。
1955年(47才)WEIZACで最初の計算が行われる。以来、広い研究分野からリクエストが殺到。WEIZACが成功する。Estrin夫妻は帰米。イスラエルでコンピュータと情報技術の要求度の高さが認識される。これがイスラエルのコンピュータと情報技術産業が盛んになる土台となる。
1963年(55才)WEIZACが退役。後継機に CDC 1604Aが採用される。
1980年(72才)イスラエル賞を受賞。Teddy Kollekエルサレム市長が「イスラエル建国に著しい貢献をしてくださった」と謝辞。
1993年(85才)死去。

https://en.wikipedia.org/wiki/Chaim_L._Pekeris
https://en.wikipedia.org/wiki/WEIZAC