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エンリコ・フェルミさんの凄いのは、理論に加えて実験装置を作って実証するスタイル。そのため有能な同僚と学生でチームを作って研究活動を行う。イタリア時代のチームの写真(下記、英語版のwikipediaでご覧ください)が何とも味わい深くて良い。しかし、ファシスト党がナチスと同じくユダヤ人追放を始めたため、ユダヤ人の奥さんを持つフェルミさんはイタリアを出てアメリカに渡り、マンハッタン計画に携わる。マンハッタン計画に参加した科学者は、原爆の威力を知った後の姿勢が、推進派と抑制派に分かれる。フェルミさんは後者。

エンリコ・フェルミ Enrico Fermi 1901–1954 物理学者

1901年、ローマ生まれ。
1914-18年(13-17才)WWI
教育
1918年(17才)高校を卒業。ピサにある高等師範学校Scuola Normale Superioreの入試に合格。面接官は「この学生は際立った物理学者になる」という評価を得て入学。同い年で物理学専攻のフランコ・ラゼッティさんと知り合い親友になる。指導教員はフェルミさんに教えることはないと言い、逆に量子物理学を教えてもらっていた。一般相対性理論、量子力学、原子物理学を独学で学び続ける。
1920年(19才)専攻を数学から物理に変更。学生はフェルミさん、ラゼッティさんら3人だけ。何をしても良い、ということだったので、フェルミさんはX線結晶構造解析の研究をしようと提案し、3人で協力して研究室内で大型のX線結晶写真装置を作る。
1921年(20才)最初の科学論文をイタリアの学術雑誌に発表。3年生で卒業証書を受け取る。
研究と論文発表を活発に行う。

活動
1924年(23才)ドイツのゲッチンゲン大学やオランダで学び、アインシュタインさんなどの学問仲間を増やす。
1925-26年(24-25才)フローレンス大学で数学物理と理論工学を教える。ラゼッティさんと手分けして研究を続ける。
1926年(25才)ローマのサピエンザ大学の理論物理学教授に就任。ラゼッティさんを呼んで研究チームを組成。研究チームのメンバーに才能あふれる若手を集めた。このチームは物理学者仲間の注目を集め、研究室に近い通りの名前から「パニスペルナ通りの小僧たちVia Panisperna boys」というニックネームを付けられる。
1928年(27才)自然に存在する元素に中性子を照射して40種類以上の人工放射性同位元素を生成するなどの実績を上げる。ユダヤ人女性と結婚。ナチスに似た考え方のファシスト党がイタリアで勢力を拡大する。

ノーベル賞
1938年(37才)中性子衝撃による新放射性元素の発見などの仕事が評価されノーベル物理学賞を受賞が決定。ムッソリーニ政権は大学からユダヤ人を追放するなど排斥の動きを強めたため、ユダヤ人の奥さんを持つフェルミさんはイタリア脱出を決意。ストックホルムでノーベル賞授賞式に出た後、アメリカに渡る。すぐ5大学からオファーを受ける。
1939年(38才)コロンビア大学の物理学教授になる。WWII
1942年(41才)シカゴ大学で世界初の原子炉「シカゴ・パイル1号」を完成させる。プルトニウムの抽出作業に専念する。マンハッタン計画のメンバーになる。
1944年(43才)オッペンハイマーさんの誘いを受け、マンハッタン計画を進めるためロスアラモス国立研究所の参与になる。
1945年(44才)ロスアラモス国立研究所に所属したままシカゴ大学で宇宙線の研究を行なう。WWII終戦
1954年(53才)癌のため死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%9F
https://en.wikipedia.org/wiki/Enrico_Fermi