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ボーアさんについて書いてあるものを読むと、明るくて開放的な性格だったのでは?という印象が残る。時代はナチス・ドイツの影響が色濃く、原爆開発との関わりを持つなど、命の危険と隣り合わせの深刻な状況が多々あったのにも関わらず、だ。例えば、ナチスがデンマークを占領したとき、仲間のノーベル賞メダルが強奪されないよう王水(塩酸と硝酸の混合液)に溶かし、戦後、ノーベル財団に沈殿物を持参して金メダルに再生してもらったというエピソードは印象的だ。

ニールス・ヘンリク・ダヴィド・ボーア Niels Henrik David Bohr 1885-1962 理論物理学者

1885年、デンマークのコペンハーゲン生まれ。父はコペンハーゲン大学の生理学教授。母はユダヤ系の豊かな実家の出身。
教育
1892年(7才)ガンメルホルム・ラテン学校に入学。
フットボール選手。コペンハーゲンの地元アカデミック・フットボール・クラブに所属。
1903年(18才)コペンハーゲン大学に入学。同大学でただ一人の物理学教授C・クリスチャンセン先生の下で物理学を専攻。天文学と数学をT・Thiele先生に、生理学を父親の友人H・Høffding先生について学んだ。
1905年(20才)液体の表面張力に関する実験的研究でデンマーク王立科学アカデミーから金メダル。大学には物理実験室がなかったので、父親の研究室を借りて一連の実験を行う。実験用のガラス器具も自作した。
1908年(23才)ロンドン・オリンピックにデンマーク代表サッカーチームの予備選手(ゴールキーパー)としてスタンバイ。
1909年(24才)クリスチャンセン先生に課されたテーマで修士論文を作成。引き続き、同じテーマを深化させた博士論文の研究を続ける。
1911年(26才)論文が受理される。内容は画期的だった。しかしデンマーク語で書かれていたため読み手が少なく注目を集めることはなかった。

活動
1911年(26才)イギリスへ留学。キャヴェンディッシュ研究所でJ・J・トムソンの下で研究。次にマンチェスター大学のE・ラザフォードの元で原子模型の研究。軸足を実験から理論に移す。
1912年(27才)コペンハーゲン大学に戻り、講義資格を持つ。ラザフォードさんの原子模型の欠点をマックス・プランク先生の量子仮説を用いて解消。
1913年(28才)ボーアの原子模型を確立した。
1914年(29才)WWI
1917年(32才)理論物理学研究所開設に向けた活動を開始。デンマーク政府、財団、ユダヤ人グループから応援を得る。
1918年(33才)理論物理学研究所開設の議案がデンマーク議会を通過。WWI終戦
1921年(36才)コペンハーゲンで理論物理学研究所(ニールス・ボーア研究所)を開設
外国から多くの物理学者を招いてコペンハーゲン学派を形成。

ノーベル賞受賞、WWII、原爆
1922年(37才)原子物理学への貢献によりノーベル物理学賞を受賞。
1933年(48才)ドイツのナチズムが勢いを増す。アメリカのロックフェラー財団が難民学者を救済するファンドを立ち上げる。ボーアさんはこのファンドを使ってボーア研究所で難民した学者が一時的に研究できる環境を整備。
1939年(54才)WWII
1940年(55才)ナチスがデンマークを占領。ドイツ軍がMax von LaueとJames Franckのノーベル賞の金メダルを略奪するのを防ぐため、de Hevesyさんに王水に溶かしてもらい研究所内で保管した。研究所に来ていた外国人研究者は皆別れ別れになった。
戦後、王水で溶けた金の沈殿物をノーベル財団に持ち込み金メダルを再生してもらった。ボーアさん自身の金メダルはAugust Kroghさんのメダルと一緒にフィンランド救済基金のオークションに提供された。(オークションで購入した人はデンマークのフレデリスクボー城にある歴史美術館に寄贈し現在も保管されている。)
1943年(58才)母親がユダヤ人であるためナチスに逮捕される危険が迫り、デンマークからスウェーデンに脱出。イギリスがボーアさん救出のため高速が出るように改装した軍用機を出してくれ、イギリスに渡る。さらにマンハッタン計画に協力するためアメリカに行く。プリンストン高等研究所IASでアインシュタインさんと会う。
1944年(59才)イギリスのチャーチル首相と面談するも原爆開発の考え方について合意できず。
1945年(60才)WWII終戦

https://en.wikipedia.org/wiki/Niels_Bohr
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%A2