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H・ワイルさん(8月13日)の指導教員であり、若きJ・ノイマンさん(8月3日)を高く評価したヒルベルト先生はどういう人であったのだろうか。学生時代が親友と教員に恵まれ、三人で行う議論は頭を練る上で何よりの刺激だった。自分が教員になってからは、博士号取得者を69人出す良い先生だった。ドイツの数学レベルを世界最高水準にした数学者サークルのメンバーだった。一流の数学者だった。日本の高木貞治先生が師事したという日本とのご縁もある。▼一方、親友の死、自身の病、ナチスドイツによるユダヤ人迫害を目の当たりにする運命の人でもあった。ナチスが大学からユダヤ人を追放する最中、会合で隣に座った文部大臣から「数学研究所からユダヤ人がいなくなってお苦しいことでしょうな」と言われたとき「苦しい?もはやそんなものさえ残ってません」と答えたという。

ダフィット・ヒルベルト David Hilbert 1862-1943 ドイツの数学者。

1862年、ドイツのケーニヒスベルク生まれ。
教育
1872年(10才)ケーニヒスベルクの中等学校に入学。
1879年(17才)科学教育に力を入れていたウィルヘルム中等学校に移る。
1880年(18才)ウィルヘルム中等学校を卒業。ケーニヒスベルク大学に入学。
1882年(20才)2才年下で内気、だけど才能のあるH・ミンコフスキーさんと友達になる。
1884年(22才)25才のユダヤ人数学者A・フルヴィッツ先生が助教授として着任。三人で学問上の議論を重ね互いに影響を及ぼしあう。
1885年(23才)Ferdinand von Lindemann先生の指導のもとで論文を仕上げ、ケーニヒスベルク大学の博士号を取得。

活動
1886-95年(24-33才)ケーニヒスベルク大学で非常勤講師を務める。
1894年(32才)ヒルベルトさんがケーニヒスベルク大学を去るので、その後任としてH・ミンコフスキーさんが助教授として着任。
1895-1930年(33-68才)ゲッチンゲン大学大学の数学教授。ヒルベルト先生の下で博士が69人誕生。学生の例:H・ワイルさん(8月13日)、チェスのチャンピオンE・Laskerさん、助手を務めたJ・ノイマンさん(8月3日)ら。またヒルベルト先生はA・チャーチ先生ほか20世紀で最も重要な数学者の輪の中にいた。同大学も数学の分野で群を抜く存在になる。
1902年(39才)ゲッチンゲン大学でミンコフスキーさんの数学の講座を開設。
1909年(46才)ミンコフスキーさんが虫垂炎のためゲッティンゲンで急死。「最良にして本当の友人」の死で悲しみに沈む。
1914-18(51-55才)WWI
1925年(63才)悪性貧血になる。
1930年(68才)ゲッチンゲン大学を退職。H・ワイルさんが後任になる。
1933年(71才)ナチスが大学に介入。大学からユダヤ人がいなくなる。ワイルさんもドイツを脱出。

https://en.wikipedia.org/wiki/David_Hilbert
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%84