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背が高くやせ型、チェーンスモーカー。心理的に不安定な面があり、友人とのトラブルの後、弟に「自分には友人より物理が必要だ」と呟く。ゼミでの議論は熱を帯びすぎるため同級生が引いてしまう。留学先のドイツの大学の指導教員は能力を認め、共著を出し、博士号を取得するまで導いてくれた。アメリカに帰国してからは理論研究に携わった後、勃発した第二次世界大戦で原爆の開発を推し進める、戦後はプリンストン高等研究所IASの所長になる。wikipediaの英語版には日本語版で触れてない話が出てくる。行動を知ると、オッペンハイマーさんは何を考えていた人なのかさっぱり分からなくなる。

ジュリアス・ロバート・オッペンハイマー Julius Robert Oppenheimer 1904-1967 理論物理学者

1904年、ニューヨーク市生まれ。ドイツから移民したユダヤ系の家庭。父は裕福な繊維輸入事業の経営者。母は画家。父は1888年にアメリカに来たときは、英語が喋れない状態だった。しかし、繊維会社に入ると10年も経たないうちに管理者になる。
教育
1911年(7才)父親が倫理文化協会のメンバーだった関係から、信条の前に行動(Deed before Creed)をモットーとする倫理文化学校Ethical Culture Society School(ECFS)に入学。
1912年(8才)一家はP・ピカソ、E・ヴュイヤール、ゴッホの絵画のコレクションと共にマンハッタンのセレブの住宅地域に引っ越す。
英文学、フランス文学、鉱物学など多方面に興味を持つ。2学年分を1年で終え、飛び級で学年が上がる。高校の最後になると化学への興味が深まる。
1914-18年(10-14才)WWII
1921年(17才)一家でヨーロッパに夏の休暇中、大腸炎にかかり、進学が一年遅れる。療養のため訪れたニューメキシコ州で乗馬と南西アメリカのファンになる。
1922年(18才)ハーバードカレッジに入学し化学を専攻。同大では専門以外に歴史、文学、哲学か数学を履修する必要があった。大腸炎で休んでいた遅れをばん回し、全米優等学生友愛会ファイ・ベータ・カッパに入るため取れるコースは全て選択。1年目で物理の好成績が認められ、飛び級が認められた。P・ブリッグマン先生の熱力学コースで実験物理に魅了される。3年で最優秀で卒業。
英国留学
1924年(20才)ケンブリッジ大学のクライストカレッジに留学。E・ラザフォード先生にキャベンディッシュ研究所で仕事ができる許可を申請。ブリッグマン先生も推薦状を用意してくれ、同研究所が受け入れてくれることになった。
ドイツ留学
1926年(22才)ケンブリッジ大学から理論物理学で世界をリードするゲッチンゲン大学に移り、M・ボーン先生の下で修業。ゼミの時、あまりに熱狂的に議論するので他の学生から敬遠される。他の学生の思いを知ると、静かになった。論文を大量に書く。ボーン先生と共著論文も執筆。
1927年(23才)ゲッチンゲン大学から博士号を取得。

活動
1927年(23才)ハーバード大学で特別研究員。
1928年(24才)カリフォルニア工科大学で特別研究員。
1930年代(20代後半)宇宙物理学の研究を行う。
1939年(35才)WWII
1942年(38才)マンハッタン計画が始まる。しかし、このプロジェクトには参加していない。
1943年(39才)原爆の製造を実現するロス・アラモス研究所(Los Alamos Laboratory)の所長に就任。
1945年(41才)ニューメキシコで初の原爆実験トリニティが行われる。WWII終戦
ロス・アラモス研究所からカリフォルニア工科大学に移る。
1947年(43才)プリンストン高等研究所の所長に就任。戦争前の理論研究に戻る。
1954年(50才)公職から退く。

https://en.wikipedia.org/wiki/J._Robert_Oppenheimer
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%BC