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世界最初の電子計算機と言われるENIAC。ここで軽く、誰が、何のために、資金は誰が出して完成したのかを確認します。1940年代、アメリカ軍は大砲の射撃表を得るまでにべらぼうな時間を要していました。ハードの大砲ができてもソフトの射撃表ができないと現場の砲兵は使えません。そこで射撃表を作る時間を短縮する方法はないか、という切実なニーズが弾道研究所BRLに寄せられていました。BRLのゴールドスタインさんは軍と大学を結び付けるリエゾン役だったのでその解決策を模索します。その結果、ペンシルベニア大で電子計算機を設計していたモークリーさんとエッカートさんを見つけます。ここで射撃表作り(資金)と電子計算機(技術)の新結合が起こってENIACの実現へと進みます。

6人のプログラマ 1940年代のアメリカは女性が働く機会は現代ほど広くなかったらしく、教師・ジャーナリストなどだったようです。とりわけ数学を学ぶ女性にとって職業の選択肢は少なかったといいます。しかし、軍が計算力として頼ったのは数学力のある女性でした。弾道計算には100名の女性計算手(コンピュータ)が従事しました。ENIACを稼働させるためにはプログラマが必要ということで、計算手の中から6人が選ばれます。この6名による縁の下の活躍によってENIACが「使えるもの」として社会に認識されました。

契約 開発資金を出したのはアメリカ陸軍。受託したのはペンシルバニア大学。実際に知識と知恵を働かせるのはエッカートさんとモークリーさん。知的財産の取り扱いを巡ってペンシルバニア大学とエッカート&モークリーさんの間でトラブルが発生。1946年の3月で二人はペンシルバニア大学を辞め起業します。

費用 陸軍にとって射撃表の作成時間が短縮化されるなら費用に糸目をつけなかったのはないか。実際は射撃表の作成ニーズは戦争終結と共になくなるも、マンハッタン計画で計算資源が必要になるので、宝の持ち腐れにはなりませんでした。

時期 1946年のプレス発表で、記者や世間を驚かせるデモを行ったのは6人の女性プログラマの努力の成果。しかし記者や世間の注目を集めたのはエッカート&モークリーさんら男性陣。ENIAC本体は1947年にペンシルバニア大学からアバディーン性能試験場に移設され、運用とバージョンアップが始まります。翌1948年にはノイマンさんとゴールドスタインさんの奥さんのアデルさんらによってプログラム内蔵方式に改装されます。1955年までの長きにわたり現場で運用され続けたのはENIACが実用機としての能力を備えていたからでしょう。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ENIAC