• 電気通信大学、プログラミング教室、東京都調布市

電子レンジからレーダーまで幅広く使われるマイクロ波を生み出すマグネトロンの第一人者。学部を出てもユダヤ人であるため就職がままならず大学院に入ってから道が開ける。奨学金でヨーロッパに渡り研究者修業と研究者仲間を増やす。研究者仲間の重要性、自分の仕事のアピールの重要性を踏まえた活動ぶりが特長的。BRLではレーダー技術で貢献。船のナビシステムで一時代を築いたLORANも成果のひとつ。

イジドール・イザーク・ラービ Isidor Isaac Rabi 1898-1988
アメリカ合衆国の物理学者。

1898年、ポーランドのユダヤ人家庭に生まれ。すぐアメリカに一家で移住。
1907年(9才)一家がブルックリンで食料品店を開く。
教育
子供の時から科学が好き。図書館から借りた本を参考にラジオを組み立てた。
小学校時代にラジオ用のコンデンサーの設計図が雑誌で紹介されたことがある。
1916年(18才)ブルックリンにある高校を卒業。コーネル大学に入学し、化学を専攻。
1917年(19才)第一次世界大戦が始まったので、コーネル軍人学校に入る。
1919年(21才)マンガンの酸化状態の研究でコーネル大学の学士号を取得。当時、ユダヤ人は化学産業や学術界から排除されていたため、農業化学企業で帳簿係として働いた。
1922年(24才)コーネル大学院に入学し物理を学ぶ。
1923年(25才)コロンビア大学に籍を変え、アルバート・ウィリス先生の下で磁気学を学ぶ。

活動
1924年(26才)ニューヨーク州立大学でパートタイム教師の職を得る。並行してウィリス先生の下で磁気感受率をテーマにした博士論文に挑むことにする。
1927年(29才)共著論文を一本提出。奨学金を得たのでニューヨーク州立大学を辞め、ヨーロッパに渡りミュンヘン大学で研究。ニールス・ボーア先生の世話でハンブルグ大学で研究を継続。高名な研究者と知り合いネットワークをつくる。奨学金が終わったので、ハンブルグからライプチヒに移りつつましく暮らす。R・オッペンハイマー氏と知り合うになる。
1929年(31才)コロンビア大学物理学科から採用の打診があったので、ヨーロッパから帰国。同大学で初のユダヤ人教師となる。

弾道研究所BRL
1940年(42才)核磁気共鳴技術の第一人者としてBRLの委員になる。
1941-45年(43-47才)第二次世界大戦中、MITの放射線研究所でレーダー技術を開発。マイクロ波を使ったレーダーがダグラスA-20 Havocに搭載される。さらに技術を洗練させ、対潜水艦用空対地レーダーや火砲制御レーダーそして電波ナビシステムのLORANが生まれる。オッペンハイマーからの要請でマンハッタン計画に参加。

ノーベル賞
1944年(46才)核磁気共鳴の業績によりノーベル物理学賞を受賞。

https://en.wikipedia.org/wiki/Isidor_Isaac_Rabi
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B8%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%93