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弾道研究所BRLのメンバーであるハッブルさんを紹介する。ハッブルさんを一言でいうと、父親の意向(法律家の道)に従って自分の希望(天文学)を後回しにする素直な息子、種目を問わない抜群のスポーツマン、二度の世界大戦とも軍に協力する愛国者、写真を使った天文観察で銀河系以外にも銀河が存在を示した天文学者、30年間同じ天文台に腰を据えて観察する継続力の持ち主である。

エドウィン・パウエル・ハッブル Edwin Powell Hubble 1889-1953 アメリカ合衆国の天文学者

1889年、ミズーリ州生まれ。父は保険会社の役員。
1900年、イリノイ州Wheatonに転居。
教育
高校大学時代、スポーツ選手として才能を発揮。
1910年(21才)シカゴ大学で学士(法律)を取得。成績優秀者のクラブ(Kappa Sigma Fraternity)にも入る。
第一回のローズ奨学生に選ばれ英国のオックスフォード大学クイーンズカレッジに入学。父親に忠実な息子だったハッブルさんは、子供時代から天文学に強い関心を持っていたにもかかわらず、父が希望した法律をオックスフォード大学でも主専攻にした。追加的に文学とスペイン語も学び、若干ながら数学と科学も履修。
1913年(24才)オックスフォード大学クイーンズカレッジで修士号を取得。この年に父が死去。母や兄弟の面倒を見るため帰郷。法律の道に進むモチベーションを失ってしまったので、代わりにインディアナ州のニューアルビー高校でスペイン語、物理、数学の教師になる。バスケットボール部のコーチも兼任。
1914年(25才)シカゴ大の恩師の紹介でシカゴ大学大学院に入り、付属ヤーキス天文台で研究を始める。口径61cmの世界最強の反射望遠鏡を使いこなし、論文「かすかな星雲の写真調査」にまとめる。
1917年(26才)第一次世界大戦が始まる。軍に入隊するため、急いでシカゴ大に論文を提出しPh.Dを取得。軍では第86部局に配属となり、第2大隊の第343歩兵連隊に入る。
従軍
1918年(27才)少佐に昇級。海外情報調査に従事するも、第86部局が戦闘を見る機会はなかった。第一次世界大戦終戦。ケンブリッジ大学に入り、天文学の知識の更新に励む。
ライフワーク
1919年(28才)カリフォルニアにあるカーネギー研究所附属ウィルソン山天文台の開設者兼所長から声がかかりスタッフ職に就く。以来、1953年までこの職場で仕事をする。

弾道研究所BRL
1941-45年(52-56才)BRLの弾道学研究ブランチのチーフになる。研究内容は、爆弾の威力をいかに効果的に引き出すか、というもの。ハッブルさんが開発したハイスピードカメラは飛翔体の観察に威力を発揮した。その結果、爆弾とロケットの設計・性能・軍事的効果の向上に著しく貢献し表彰された。

https://en.wikipedia.org/wiki/Edwin_Hubble
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%83%E3%83%96%E3%83%AB