デービスさんの凄いところは、A・チューリングさんと互角に意見交換する数学力を持ち、それだけで終わらずに、手がけたプロジェクトは投げ出さず人々が使えるところまで持って行く「完遂力」。例えば、チューリングさんが手掛け途中で宙ぶらりんになったACE computerプロジェクトでは、リーダーとして手の内に収まるPilot ACE computerとして完成させる。コンピュータ通信では、パケット交換方式を発明し、これがイギリス国内とヨーロッパの標準になる。アメリカのARPANETにも適用される。発想から社会実装までの一連をやりとげる人物。
ドナルド・ワッツ・デービス Donald Watts Davies 1924-2000 コンピュータ科学者
1924年、イギリスのウェールズ州生まれ。炭鉱会社の事務員をしていた父親が死去したため、母親が実家のある英国南部のポーツマスに家族で戻る。教育もポーツマスで受ける。
教育
1943年(19才)インペリアル・カレッジ・ロンドンでBSc(物理)を取得。
バーミンガム大学でクラウス・フックスが進めていたイギリス軍の原爆計画の助手を務める。
1947年(23才)インペリアル・カレッジ・ロンドンで第一級学位(数学)を取得。優秀数学者として表彰を受ける。
実績 A・チューリングさん着手のコンピュータを完成
1947年(23才)国立物理学研究所(NPL)に入る。A・チューリングさんが自動計算エンジン(ACE)コンピュータを開発していた。チューリングさんと互角で意見交換する。チューリングさんは多忙で別の組織で進めていた暗号解読や休暇のためACEプロジェクトは停滞状態に陥った。チューリングさんに代わってプロジェクトの指揮を執ることになったデイビスさんは、仕様をコンパクトにしたPilot ACE computerの完成を目標に作業を進めた。
1950年(26才)Pilot ACE computerが完成、稼働。
実績 パケット交換方式
1965年(41才)パケット交換方式のアイディアを得る:コンピュータのメッセージをパケットに分ける・それぞれのパケットはネットワークを流通する・そのときパケットは多様なルートを取る・受信側がパケットを再構築する。同じ時期、アメリカでRANDコーポレーションのP・バランさんが同じようなアイディアを追求していた。デイビスさんは、コンピュータネットワークの情報量は、電話回線の情報量に比べて一様でない、という見方をした。デイビスさんは情報のまとまりを「パケット」と名付ける。
1966年(42才)パケット交換方式に基づく国内データ通信の設計と提案を発表。
NPLに戻り、コンピューティング部門を担当する。MITを訪問したとき、MITのタイムシェアリングシステムにかかる電話代が膨大になるという問題を知り、データ通信に興味を持つ。
実績 英国の方式がアメリカのARPANETへ
1967年(43才)カンファレンスでNPLの同僚がパケット交換方式を紹介。ARPANETの開発者がこれが最先端で最良の解ではないかと注目。
ARPAのL・ロバーツさん(7月14日参照)がデイビスさんのパケット交換方式をARPANETに応用、後のインターネットにつながる。
1968年(44才)エジンバラで行われたカンファレンスでデイビスさんは自らパケット交換方式のプレゼンを行う。その後、NPLネットワークが英国とヨーロッパで普及する。
https://en.wikipedia.org/wiki/Donald_Davies
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%83%83%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BC%E3%83%93%E3%82%B9
Donald Davies | Standing on the Shoulders of Giants