ゴールドスタインさんは、アメリカ合衆国の数学者・計算機科学者。1913年シカゴ生まれ。両親はユダヤ人。1936年、シカゴ大学で博士号を取得。その後、飛ぶ弾丸の動きを研究する権威の元で3年間助手を務める。1939年(26才)、にミシガン大学で教職に就く。▼1941年(28才)、アデル・カッツと結婚。アデルは、のちにENIACのプログラマであり、ENIACの取扱説明書を書き、選抜されたプログラマの指導も担当した。▼1942年(29才)、アメリカ陸軍に入隊、陸軍中尉となる。アバディーン性能試験場の弾道研究所(BRL)で射表を計算する兵器数学者として勤務。BRLは、砲弾の弾道計算のためペンシルベニア大学電気工学部(ムーアスクール)の計算施設を管理下に置いたのでゴールドスタインさんはBRLと大学の連絡窓口=リエゾン(the liaison between BRL and the university)になった。このとき、真空管を使う電子計算機を企画していたモークリーさんと会う。▼1943年、ゴールドスタインさんは、モークリーさんが書いたENIACの提案書で陸軍の開発資金を確保。ENIACと並行して企画していたEDVACの開発についても、陸軍はムーアスクールと開発の契約を交わした。ゴールドスタインさん、モークリーさん、プレスパー・エッカートさんらは、EDVACの開発準備を進めていた。
■以下、プログラム内蔵型をノイマン型と呼ぶようになった背景、プログラム内蔵方式の発明者であるモークリーさんとプレスパー・エッカートさんが大学を辞めた背景について紹介する。▼1944年、ゴールドスタインさんは超有名な数学者フォン・ノイマンさんと偶然出会い、電子計算機開発プロジェクトの話をする。ノイマンさんはマンハッタン計画のため、計算パワーを必要としていたので、話に興味を持った。▼ノイマンさんはEDVAC開発グループの議論に加わった後「EDVACに関する報告書の第一草稿」を書く。ゴールドスタインさんはこれを101ページの文書にまとめ、著者としてノイマンの名前だけを書いた。プログラム内蔵方式を実際に発明し設計したモークリーさん、プレスパー・エッカートさんの名前がなかった。その後、二人が特許を出願したところ、第一草稿で公開されていることを理由に拒絶される。▼1946年6月25日、ゴールドスタインさんはEDVACプロジェクトに関係する人に写しを送った。読んだ人は、プログラム内蔵型をノイマン型と捉えるようになった。▼モークリーさんとプレスパー・エッカートさんは1946年3月にペンシルバニア大学を辞め、4月にElectronic Control Companyを起業する。二人が大学を辞めたのは、大学が定めた知的財産権の譲渡に関する新しいルールが原因で、二人が大学に残ると全ての特許を大学に譲らないといけなくなるからだった。▼ゴールドスタインさんは第二次世界大戦後、ノイマンさんらと共にプリンストン高等研究所に入る。
https://en.wikipedia.org/wiki/Herman_Goldstine https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC
1966 – The Computer Once Looked Like This? (ゴールドスタインさんがENIACを解説している)